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コラム

松川 BOSS 聖彦『第2回 田舎のスケートシーンとオリジナルブランド』

2018/06/20 tag: 松川 BOSS 聖彦

2回目のコラムは、情報の多い東京に憧れ、ど田舎石巻でスケートボードをしながらオリジナルブランドの立ち上げを模索していた頃のお話です。
スマホやナビは勿論ない、新幹線は大宮まで、東北道も都内には繋がってない時代。

違法行為ギリギリのグレーな話や、ハラスメント系な部分があり「えっ~!?」と思うかもしれませんが、今から30年位前の話なのでお許しください。
そして私の記憶も加齢臭により呆けてきてますので、曖昧な部分が多々ありますが、4~50代のみなさんにお届けする、1980年代スケートあるある「そうだ!解る解る!あったあった」と思ってもらえたら嬉しいです。

 

◆コーピングって何それ
昔々の1985年前後の話。宮城県石巻市は港町で海が近く、古くからSURF SHOPがあり、その片隅にスケートボードも販売されていて、いち早くスケートボードに興味を持つ人が多かった。なんとWARRIORSと言うスケートボードチームまであり、とても盛り上がっていた。

チーム員は20人ぐらい、多くの人がサーフィンもやりながらスケートもしていて、2割が町内の小学生だったかな?
当時のSURF SHOPのオーナーが、高さ2m30cmぐらいのバーチランプを作ったんだけど(今思うと相当お金かかってただろうな~)、当然誰も知識がないので、設計事務所に雑誌の写真を見せて設計してもらった物。
そしてこれまたスケートボードの知識がない大工さんが「キッチリ」作ったそれは、なんとコーピングがない!笑

チームのみなさんはどちらかというと、サーフィンのイメージでランプを滑っていて、まだミニランプと言う言葉も知らず、デカいバーチランプに近いランプと、高さ90センチぐらいのクォーターでひたすら重心を後ろ足に乗せて、サーフィン的なターンや、Rに入る時から手で板を持ちグラブエアー、ちょっとぎこちない感じのロックンロール的なことを繰り返す毎日。もちろん私もクラブ員として殆ど独学の我流スタイル!23歳ぐらいだったのでそんなにすぐ上達する訳もなく、それでも毎日滑り続けた結果、右足首を見事骨折。その1年後に左足も骨折(それにより足首が強化されたと実感してます)。
ボンレスとかハンドプラントとか、スケート寄りの乗り方はまだまだ!な感じだったね。

 

◆暇な店長時代に・・・
そうこうしてしてる間に、2年も経つとスケート熱が少し下火になり、その当時の店長から突然お店をやってくれないかとバトンタッチされ、軽い気持ちで引き受け24歳くらいでSURF SHOPの店長になったワケです。
そこでの日常は、そんなにお客さんが毎日来る訳でもなく、多くはない常連さんからの依頼でウエットスーツやサーフボードのオーダを頂いて細々とやってる感じ。

空いてる時間多かったので、スラッシャーや海外の雑誌から影響を受けて、メモ程度に鉛筆やマジックペンでロゴマークや絵を描き始めたんだけど、今思えばこの暇な時間が後々効いてくるんだよね~。

仕入れと称して、たまに仙台の海洋商事(後のトランパック、東北のディストリビューション)に出向いて、スケートボード関係の新商品を物色、当時の専務さんが石巻の隣町・女川町出身で、何故か商売とは別に色々と面倒を見てもらってたな~。

 

◆謎が謎を呼ぶ未知の世界
そこで仕入れたスケートビデオPowell Peralta /The Bones Brigade Video Show(1984)を何度も見返して、本場のスケート環境に憧れつつ時代は87年に突入。
Powell Peralta / Bones Brigade 'The Search for Animal Chin'(1987)やVision _ phycho skates(1988)でストリートとミニランプが人気に!当時は2回目のスケートブーム到来の感じで、ストリートスケートにはサーファーたちはあまり興味がなく、どちらかというと小中学生、高校生たちが興味を持ち、毎日店に来てはビデオを見てどっぷりハマり、みんなでトリックやスケーターの名前、デッキやパーツ類のマニアックな会話が自然と飛び交ってた。

半年遅れのビデオやスラッシャーマガジンを見ては、なんでこんな写真が撮れるのか、なんでこんなスタイルになるのか?謎が謎呼ぶ未知の世界。見よう見まねで写真をヒントに、枕木を使ってレイルスライド的なことをやったり、バンクを何個も試作したり、コーピングを付ける意味がわからず只のクォーターを作り、上がり口と(本来コーピングがある部分の)角がすぐボロボロになったりして、ようやくコーピングを付けようとするも、これも手探り。出過ぎ出な過ぎ、色々探ってようやく基本が完成。毎日毎日盛り上がってクォーターで遊び、無理矢理実戦して何とか体得するのでした。

写真はスケートチームウォリアーズ、ショップ店内 コーピングの無いバーチランプ(仙台にあった物)

matsukawa photo

 

◆やんちゃなケンちゃんこと大河原研
ここで少し、東北のスケートボード界を語る上で絶対外せない、人生をハードコアで生きたケンちゃんを紹介します。

生まれもっての超感覚人間。
小柄でサーフィンもスケートも、スタイル重視!
かなりうまくて敵が居ない状態(サーフィンはツインフィン)。
嫌いなことは絶対やらない、自分とスタイルの合わない奴にはバシバシダメ出し!
周りと一線を画す感じ、いつもビリビリ感が漂ってた。
日の丸大好き、白Tに自分で絵やスローガンを書いて着たり、ライフスタイルも勿論変!
風邪を引いてないのに風邪薬のブロン錠剤を持ち歩き、本人いわく液体のヤツが早く効くとよく言っていた。笑

1983年ぐらいに3ヶ月ほどカリフォルニアに住んで、本場のカルチャーを持って帰石。
スケートのこととなると目の色変えて喋りだす、止まらなくなる。スケート愛が強い強い。
コレクションの少しボロボロのスラッシャーを見せて、ニール・ブレンダーがカッコいいとかこの技知ってるか?とみんなにレクチャー!
少しうまい子供たちを見ると技を教えたり、一緒に滑り出す。

私もクォーターバンクを作る時など、Rの角度やコーピングの出具合を良くレクチャーしてもらいました!
当時(前出の)海洋商事でパウエルチームを呼んだ時や、確かヴィジョンのプロモーションで、マーク・ゴンザレスを呼んだ時も、彼がアテンドして連れ回し、部屋でゴンズやキャバレロに直接絵を描いてもらったり、ゴンズはデモや大会のエキシビジョンで滑るより、フリーで滑っている時の方がヤバいらしく、仙台駅前の車が往来するロータリーでかなりマニアックなトリックをかました!とか、15~16歳でアメックスのゴールドカードを持っていたのと、マジックペンを常に携帯してるんだよとみんなに教えてくれた。
良くも悪くも彼は、子供たちにかなりの影響力を持っていました。

そんな彼が、仙台でスケートボードを通して出会ったのが、大滝君(o3、T19 Skateboards)でした。
o3さんとは歳が一緒と言うことで、かなり盛り上がって情報交換を頻繁にしてたみたいです。
私もその情報の一部分を分けてもらったりしてましたね。その後90年代に入り、o3を紹介してもらったのです。

しかしその後、ケンちゃんは2011年東日本大震災を乗り越えた後4月19日に亡くなりました。享年48歳でした。

matsukawa photo

 

◆最初のオリジナルブランド立ち上げ
さっきの店長時代から簡単な絵を書いたり、洋書から写真を勝手にパクッたりして貼り切りし、グラフィックデザイン的なことを独学でやり始め、最初にデザインをしたのはこのコラムの冒頭に出てくるスケートチーム「WARRIORS」のロゴマークで、Tシャツとステッカーにしたんだっけかな。

たまたま私の同級生の実家が、スクリーンプリント業を営む大漁旗(漁船に掲げる派手な旗)屋さんで、初めはそこに依頼してTシャツを作ったりしてたんだけど、作業を間近で見ているうちに、黙って見ていられない性格がムクムク。
ちょっとやらせてもらったりして、そこからシルクスクリーンプリントに興味を持ち始めて早30年!

平行して、何となくブランドを作ろうと半年ぐらい色々考えてた頃で、色んな情報がパズルのように揃いかけてました。
ブランド名はどうしよう?ブランドコンセプトは?Tシャツは何処で仕入れるか?ブランドネームは何処で作れるのか?
どうやって売るのか?毎日???の連続。当時はネットがないから電話帳で業者を調べ、織りネームとプリントネームの違い、ミニマム枚数聞いてビックリしたり、とにかく手探り、肝心の資金も今で言うサラ金から安易にお金を借りてとにかくスタート!笑

そんなこんなで、87年にめでたく「GET IT ON」 と言うオリジナルブランドをスタートさせたのでした。
ベースのイメージはSKULL SKATES風&50年代のアメリカのイメージをプラスした感じ。
営業は一人で車に積んでSURF SHOPに飛び込み営業したり、海洋商事に協力してもらったり。

雑誌fineに直接電話して、1番後ろのプレゼントコーナーに商品を提供したり、中高生の石巻若手スケーターにRIDERと称してTシャツを着せ、プロモーションさせたり。
しかも一人前にポスターまで作っちゃって、ハーレーの脇にジャンプランプを置いて飛び越えている構図で、今思うと後輩もよく協力してくれたな~。笑

 

◆ラジカル88&ロサンゼルスクラブ遠征も・・・
翌年88年に東京池袋でRADICAL88が開催され、それに合わせて石巻中高生スケーターたちをストリートの大会に出場させるのと、自分のブランドプロモーションも兼ね、クルマで意気揚々と東京に向かって出発進行~!
深夜に石巻を出て、中高生チーム員は興奮してほとんど寝ないまま翌朝池袋に到着。

中高生スケーターにとっては、何もかも初めてでかなりのカルチャーショック。
ストリートの大会練習では、他の強者たちが滑り出すと次元が違いすぎて話にならず、田舎者はすでに本番前に打ちのめされたのでした。
結果は当然散々たるもの、夜は三茶のロサンゼルスクラブで滑ったけれど、ここでもやはりローカルが本当にみんな上手過ぎてついて行けなかった。

こうして何の爪痕も残せないまま、帰りの車はまるでお通夜。疲れ果てて誰も喋らない、そんなに世の中甘くなかった。笑
同じく初のオリジナルブランド、GET IT ONはそんなに人気にならず約1年ちょっとぐらいで終了したのでした。

 

◆2つ目のオリジナルブランドWILD STYLE立ち上げ
89年~92年頃、独学でシルクスクリーンプリント業を無理矢理スタートさせたものの、ハッキリ言って暇だったんで、同時に看板屋でアルバイト。
そこで作業スペースと2トン車を借りて、ランプ作って運んだり、プリント営業と称して半年に1回東京に出向いては色んな情報収集、ネットワーク(人とのつながり)を広げてました。

そしてこの頃には2番目のオリジナルブランド「WILD STYLE」を始め、ワークウェア的なイメージでジャケットやパンツを作ったり。
今で言うストリートブランドやドメスティックブランドと言われるもので、織りネームのタグを作って、グラフィックデザインはコネを最大限に使い、マジカルタトゥーの内山氏に3、4点描いてもらったな~。

 

◆90年代 私のスケートライフと仲間たち
そして田舎のスケートシーンは女川、石巻でジャンプランプやクォーターを持ち出し、何時も同じメンツで毎週末は滑り倒す感じ。
たまに仙台新港にランプを運び、駐車場を勝手に占拠して丸1日セッションしたり、偶然空き地を見つければこんな感じのランプがあったら良いね~とイメージを広げ、簡単な図面を書いてみる。
バイトしていた看板屋の場所と道具を借り、Rと骨組みを切り出し、若手スケーターを招集して半日で勝手にミニランプを建てた。

またあるときは、実家近くの国道沿いにある堤防(土手)のたもとに、高さ150cmぐらいのランプをたて、当時高校生だった鈴木孝宗(現ステイブルー(株)代表)をこき使い、学校帰りの彼を捕まえランプを青いペンキで塗っとけと命令したり(プリント工場の壁もブルー、車もブルーだったので、ランプもブルーに。当時のマイブーム 笑)。
でも、なかなか管理できずに不良のたまり場的になり、湿り気のあるエロ本(当時はビニ本と言ったもんだ)や、タバコの吸い殻が散乱するハメに。河川敷を管理する事務所からの再三の撤去命令もあったので、泣く泣く解体。

中高生スケーターと言えば、タカムネや圭介を引き連れ3,4人で、夜行バスを乗り継いで大阪に行ったりもしました。
伝もないのに、ただ雑誌fineで見たアスコットパークに滑りに行きたい一心で。笑
かなり遠かったし、アスコットパークでは開始10分で全員打ちのめされる始末。
どうにもこうにもうまく滑れず、宿泊はアメ村のカプセルホテルに2泊3日。
帰りの夜行バスは乗り遅れて絶体絶命、案内センターでバスに連絡してもらい、タクシーで自分たちの乗るバスを追いかけ何とか合流できたり。

当時は先輩後輩の縦の関係が絶対的で、数多くの無茶ぶりにも幾度も答えてくれたなぁ。
海岸でスケートボード後のBBQの時は、ターゲットを見つけ「女川はノリが悪いな!特にコウちゃん!今日滑りはダメだね!」的なことを言いながら、板をたき火の中に放り投げて燃やし、ゲラゲラ笑ったりしたけど、翌日はちゃんと(新品じゃないけど)フルセットを渡したり。

夏はサマーフェスタと称して有志が集まり、海でイベントをやった。
たった1日のイベントのために1週間前から準備してミニランプをたてた後、1ヶ月位そこでキャンプやったりして滑り倒した。
経費もほとんど自腹で、足りない分はいつも後輩にカンパさせる(この辺の感覚も、私にとっては普通だけど今じゃビーバップハイスクール的昭和のノリ)。
この頃に、今じゃフォトグラファーで世界中駆けまわるrip氏と何故か友達になり、わざわざ遊びに来てくれたんだな。

そしてどうやって連絡を取り合ったか忘れたけど、カリフォルニアストリートの社長(藤原氏)とはっちゃきくんたちが石巻まで遊びに来てくれて、ミニミニランプと称して2トントラックに積み込みできる高さ60cm巾270cmほどの調子のいいランプで市民会館の駐車場でまる1日セッションをしたのも思い出す。翌日足がパンパンで歩けないくらいだったけど、はっちゃきくんの動きに翻弄されたね。

最後にどうしても紹介したい、先に上げたメンツ以外にも田舎のスケートシーンを牽引するコアなヤツらのことを。
仙台で2000年代にスケートショップDEATHMIX STOREを立ち上げた女川出身の片倉氏、ownのライダーになったやはり女川出身で限りなくプロに近い阿部圭介。
石巻では、感性が個性的でいつもダジャレばっかり言ってた故・青木やすし(彼はいつも車にちょうどいいサイズのジャンランを積んでいたな)、ストリートからミニランプまでソツなくこなす江良兄弟など。
今でもZOMBIE会と称して月イチでただただお酒を呑む会の席で、今書いた話が必ず話題になります。
昔は暇だったから絵を描いてセクション作ってスケートボード。
途中忙しくて今ほどスケート出来ない時もあったけど、結局必死で「暇」を作って、54歳になった今も変わらずおんなじ事してる。
中高生スケーターにカンパの強制はやめたけどね!

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写真の真ん中が私で右が鈴木タカムネ社長、タカムネ社長と圭介(阿部ちゃん)が着てるのがWILD STYLEのTシャツ(内山氏のグラフィック)、奥のドレッドヘアーが板を燃やされたコウちゃん。そして青いクルマ。

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ランプを海に運んで滑る。ライダーは江良伸晴

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女川で滑る片倉氏

もっともっと写真や動画が有ったのですが、みんな2011年に石巻や女川で被災して、
残っている写真画像を無理矢理提供してもらいました。江良兄さん、圭介ありがとう!
今回も文字数気にしないでダラダラと書いてしまいました。お付き合いしていただきありがとうございます。
次回は90年代以降とCREAM GARAPHICS誕生について書きたいと思います。

 

松川 BOSS 聖彦 プロフィール
宮城県石巻市在住
有限会社CREAM UNITED 代表
スクリーンプリント業

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