INTERSTYLE Magazineのサーフコラムもいつの間にか今回で4回目、最終回です。
第1回は「僕にとってのパイプライン、そして水中写真」、第2回は「海に生きる者として」、第3回は「サーファーと社会性」というタイトルで書かせてもらいました。
そして最終回の今回は「ハワイアンカヌーを見つめて」というタイトルから、ハワイアン・ポリネシア人たちが自然から何を学び、どう自然に寄り添って暮らしてきたのか。僕の目指すウォーターマンとは何なのか。というところに迫っていきたいと思います。
(ハワイアンカヌー)
第2回目のコラム「海に生きる者として」でも書きましたが、僕が目指すのはウォーターマンです。
この「Waterman」とは何なのか?を考えるとき、ハワイアンをはじめ、ポリネシア人たちが培ってきた経験や航海技術、そしてそのマインドを除くことはできないと思います。
僕がウォーターマンという言葉を初めて聞いたのも、ある雑誌の特集でタイガー・エスペリというハワイアンが特集されているのを読んだ時でした。
そこから彼の生き方や考え方に影響を受け、ウォーターマンを目指すようになりました。
タイガー・エスペリとは?
“Tiger Espere(1946-2005)
タイガー・エスペリは1975年ホクレア号処女航海のクルーメンバーで、オアフ島ワイメアの初代ライフガードの一人である。
2005年7月21日に癌のためオアフ島クイーンホスピタルにて亡くなる。58歳だった。
サーフィン、釣り、そしてハワイ文化に精通した者として、ホクレア号やマカリイ号の建造に深く携わった。“
参考:http://archive.hokulea.com/index/da_crew/tiger_espere.html
(タイガー・エスペリ)
そのタイガー・エスペリは、晩年を日本で過ごしたといいます。
1996年に初めて日本の地を踏んだ彼は、そのとき訪れた鎌倉の長谷寺に魅了されたそうです。
更にその翌年にも長谷観音様を更に知るために日本を訪れ、同時に航海カヌーを日本で作ることを提案します。
そのストーリーは日本ハワイアンカヌー協会のホームページをご覧いただく方がいいかと思うので、下記にリンクを記載します。
https://www.kamakurago.com/tiger-espere
タイガーはガンによって58歳の若さでこの世を去ってしまうのですが、彼の意志を継いで日本ハワイアンカヌー協会(以下JHCA)の代表として活動を続けている、中富浩さんと先日のMar-vista Gardenでのenjoy_.のグループ展の際にお会いすることができました。
想いというのは、ご縁を引き寄せ、結んでくれるものだなと感謝に尽きます。
その際に、10月にハワイ州ハワイ島からカヌービルダーたちがやってきて日本で実際にカヌーを作ると聞き、彼らが来日する期間はできるだけ彼らと一緒にいさせてもらえるようお願いしました。
その彼らとつい先日まで日本での時間をご一緒させてもらったので、そのなかで知ったことや感じたこと、学んだことをここでシェアできたらと思います。
ハワイ島から来たカヌービルダーたち「Laka」のメンバーと合流したのは宮城県仙台市坪沼という、海から1時間ほど内陸に入った場所。
坪沼までは千葉から1人で旅仕様に改造したステップワゴンを運転し、途中福島県福島市のチャンネルスクエアという屋内施設に寄って、「陽けたら海へ」通称「あけうみ」というイベントで知り合った福島の子供たちと遊んだり、たまたまやっていたお祭りに参加したりしながら北上していきました。
(Channel Squareにて)
坪沼に着いたのは夜中だったので、近くの広場でルーフテントを広げて寝ました。
次の朝に中富さんやハワイアンたちと合流するとちょうど朝ご飯を作っているところで、挨拶もそこそこに、「ユウマも一緒に食べよう!」と、自分たちよりも先に僕のご飯を用意してくれました。
この日から3日間彼らと行動を共にすることになるのですが、彼らのもつアロハの心には何度も感銘を受けました。というのも、初日の朝食のように彼らは基本的に自炊をするのですが、ハワイ島からわざわざ持ってきたグレービーソースを使ったロコモコや気仙沼でもらったフカヒレなど、その都度僕の分も作ってくれたり、みんなでお酒を飲む際にはいつの間にか僕の分までゲットしてくれていたり。
直接的ですが、彼らになんで?と聞くと、「俺らは仲間と何でも分かち合うのさ」と言ってくれたのはこれからも忘れないでしょう。
そんな彼らなので、あっという間に打ち解けたのは想像するに容易いですよね。
ハワイ島の人とはあまり会ったことがなかったのですが、彼らと触れ合うことでハワイ島にどうしても行ってみたい!と強く思うようになりました。
帰国が近くなると、彼らは「ぜひハワイ島にもおいで」、「俺の家に泊まりなよと」口々に言ってくれて、涙腺崩壊寸前でした。
坪沼での初日は、以前来た際に切り倒した丸太に少し手をつける作業。
この段階で木のどの面を上に使うかなどが決まるのですが、ハワイアンたちの師匠であるアンクル・レイ(御年77歳)には丸太の中にすでにカヌーが見えていると言っていました。
このアンクルが自分の息子であるAlikaを含む、Jason、Paul、Namahoeの4人(今回は4人)にどうやって木の声を聞いてカヌーを削り出すか伝えていきます。
ここまででお気付きの方もいるかもしれませんが、そう、彼らは1本の丸太からカヌーを削り出すのです。
ポリネシア人の航海者たちは大昔から方位磁石などの航法器具を使わずに遠洋を航海していたとされていますが、当時から彼らはその航海のためのカヌーも1本の丸太から作り出していたのです。
しかし現在ハワイで丸太からカヌーを削り出せるのはアンクル・レイ1人しかいなくなってしまったそう。
このハワイアンのアイデンティティといえる技術と文化、そして歴史や誇りを継承していくのが彼らの活動の目的だとAlikaが語ってくれました。
今回アンクルは4人に質問を投げかけたり教えを説いたりと、作業自体は彼らに任せ、自らの思いを彼らに託しているのが伝わってきました。
(作業を見守るUncle Ray)
丸太からカヌーを削り出すのには、数カ月~最長2年ほどかかるそうです。
というのも、丸太という木材を加工するわけですが、木は木目によって反ったりねじれたりが生じます。
ましてや中をくり抜いて作るので、その工程を一気に進めてしまうと大きな狂いや割れが生じてしまうのです。
そこで、カヌーのアウトラインを削ったあと、中を彫る作業を2~3回に分けて行います。
まず半分弱ほど彫ったら数カ月乾かし、また様子を見ながら彫って、乾き具合を確認しながら最終的な厚みにまでシェイプしていくそうです。
今回は丸太に手をつけるところと、カヌーの最終シェイプの部分が見られたのでラッキーでした。
しかしながら、このカヌーの建造にはある程度のスペースも必要になります。
現在建造を行っている気仙沼、坪沼、藤沢ではJHCAの活動に賛同してくださっている方が土地を使わせてくださって実現しています。
今後彼らの活動を知り、賛同してくださる方が増えていくといいなと思いました。
また、完成したカヌーを保管・管理する場所も必要になります。
こちらも日本ハワイアンカヌー協会の活動に賛同してくださるマリーナさんなどが増えたら素敵だなと思います。
初日の作業を終えた夜、ハワイアンたちに今年公開されたディズニー映画「モアナと伝説の海」についてどう思うか気になったので聞いてみたところ、「あれは我々の文化の表面をかじったものにすぎないけれど、よかったよ」と答えてくれました。
内容としては、よりニュージーランド色が強いもので、様々なポリネシアの面が盛り込まれてるそう。
(Moana)
「ディープな話になると別だけれど、表面的にはよかったと思うよ。ただ、あの映画の中にはカヌーを作るところが出てこないよね」と語ってくれたアンクルは更にこう続けました。
「航海は航海士とカヌーがあってできるもの。
航海士がいてもカヌーがなかったら航海はできない。
ハワイが王政だったころ、王様の最もそばにいたのは航海士ではなくカヌービルダーなんだよ。
あの映画にはその重要性が盛り込まれていないのが残念だね。」
言われてみれば、映画モアナの中ではすでにカヌーは出来上がって存在していました。
王の側近にカヌービルダーがいたというのも大変興味深く、それが意味するところもこの時強く感じたのを覚えています。
2日目の作業を終えた夜、JHCAの代表の中富さんに、日本でハワイアンカヌーを作りたいと願ったタイガー・エスペリの目的は何だったのかを聞くことができました。
「タイガーの目標はいくつかあって、1つはホクレア号を日本に呼ぶこと。これはタイガーの死後、2007年に叶ったんだ。
そしてもう1つは、ホクレア号レベルのハワイアンカヌーを日本で作って、ポリネシアやハワイまで行きたいというものだ。」
(ホクレア号)
タイガーは日本人もポリネシア人のように航海していたはずだと考えていたそうで、実際にそういった歴史も判ってきています。
全長20mのホクレア号レベルのカヌーを作るとなると、予算も時間も大変かかるのでいきなり実現するのは難しいということで、その前段階として日本最初のハワイアンカヌー「Manō Kamakura号」で日本を1周させることが当面の目標だそうです。
そのためにも日本全国でカヌーを作り、その地その地で漕ぎ手を育てたいと考えているそうです。
(Having fun on Mano Kamakura)
もう少しタイガーのエピソードを。
タイガーは日本でのカヌー作りを夢見て奔走しますが、日本のメディアビジネスに巻き込まれて疲弊してしまいます。ハワイで生まれ育った彼にとって、日本のビジネス観というのはとても難しかったようです。
彼の夢に賛同して集まった仲間たちともしだいに距離ができていきました。
そうするうちにタイガーも踊らされていることに気が付き、ハワイに帰ってしまいました。
悲運なことに、その後すぐガンが発覚し、58歳の若さでこの世を去ってしまうのです。
しかしその1年後、タイガーの弟であるのルイが「兄タイガーの夢を見て、日本でカヌー作りを続けてほしいと言っていた」とJHCAに連絡してきたことをきっかけに、また運命は動き出しました。
そして2007年にホクレア号が日本にやって来て、ハワイアンカヌーの認知度が一気に高まったことでJHCAも資金が集まりだし、実際にカヌーを買おうとしていたところ、運命的に10mを超す大丸太が南伊豆・赤穂浦に流れ着きます。
そこで中富さんの娘さんがハワイ島に留学中、アンクル・レイとコミュニケーションを取ることができ、この大丸太でのハワイアンカヌー作りの指揮を頼むと、2つ返事で了承してくれたそうです。
(南伊豆に流れ着いた大丸太)
今のJHCAの目標は、2つ目の目標の第一段階である、ハワイアンカヌーでの日本一周。
これは駅伝方式で、漕ぎ手が繋いでいくスタイルが望ましいとJHCAの中富さんは話してくれました。
そのためにも日本中の東西南北15か所ほどでカヌーを建造し、漕ぎ手を育成したいと考えているそうです。
日本各地で完成したカヌーに日本の子供たちに触れてもらって、5年後とかに高校生になったその子たちが日本一周に携わってくれたら素敵だと僕も思います。
(未来ある子供たち)
ハワイアンカヌーは全員が息を合わせて漕がないと速く漕げないそうです。
この特性を利用して、ハワイでは教育の現場にも導入されているといいます。
意志の疎通、阿吽の呼吸という、お互いを尊重し協調する心を身に着けるのに大変効果的だそうです。
ハワイ全体のカヌープロジェクトはもともと、グレてしまった子たちの再教育プログラムとしての側面も持っているそうです。
360°海しか見えない状況に放り出されることで、否が応でも協調性が生まれ、人を想う心が生まれるといいます。
JHCAの中富さんはそういった教育的な面も見据えてやっていきたいと話してくださいました。
日本各地のその地にハワイアンカヌーがそういった教育とともに根付き、素晴らしいマインドが育っていくことを僕も一緒に夢見始めています。
僕の中に、「ハワイアンはいつからカヌーを作り、航海を始めたのだろう?」という疑問がわき上がってきたので、Alikaが作ってくれたロコモコを食べながら彼らに聞いてみました。
「その答えはハワイに人が来る前だよ。タヒチやニュージーランド、マルケサス諸島などからポリネシア人がカヌーに乗ってハワイにやってきたんだ。
ゆうに1000年は前だね。海賊時代よりも前から航海をしていたんだよ。
ポリネシア人が世界で最初の「真の航海者」なのさ。」
この答えを聞いてその歴史の深さに僕の心は踊りました。
近代ではカヌーは合板やFRPを用いて作られます。その方が簡単だからです。
ではなぜ「Laka」のメンバーたちやJHCAは丸太から木のカヌーを作るのでしょうか。
「それは自分たちが受け継がなかったら途絶えてしまうからだよ」とはNamahoe。
自分たちの文化や・アイデンティティを失わないために、この活動はハワイアンとして、ポリネシア人としてとても重要だと言います。
ハワイアンカヌーはハワイアンにとって、ハワイ語やサーフィン、フラと同じ「文化」です。
それは太古から彼らの誇りやアイデンティティでありました。
しかし、ハワイ諸島にやってきた白人の宣教師によってそれらを禁止され、ハワイアンは自分たちの文化を失ってしまったという歴史があります。
だからこそ、いま、自分たちのアイデンティティを守るため・受け継いでいくためにハワイアンカヌーを作っているのだそうです。
また、日本人はいい文化への関心がとても高いとも語ってくれました。
「ハワイでウッドカヌーへの関心はまだあまり高くないが、日本人はとても興味を持ってくれるし、積極的に関わってくれる。とても感謝しているよ。」と言っていたのが印象的でした。
ハワイにはカヌーの文化があり、カヌー競技のイベントでは60歳70歳のおじいちゃんおばあちゃんの隣に小学生の子たちがいて、一緒に「今日の海はこうだね」などと話しているそうです。
そんな風景を僕もこの目で見てみたいと思います。
最後に「Waterman」とは?という質問を彼らに投げかけた際の話を。
彼らハワイアンにとってのウォーターマンとは、ショートボード・ロングボード・ボディボード・ボディサーフィン・カヌー・ウィンドサーフィン・カイトサーフィン・SUPなど、あらゆる方法でさまざまな波に乗り、さらに釣り竿を使う釣りや、素潜りで魚を突くスピアフィッシング、泳ぐことにも長け、風を用いたセーリングなどにも精通する人物のことを言うそうです。
同時に、漁師やライフガードのように海を生業とし、人を助ける人のことも指すそうです。
彼らと話す中で僕の理想とする「その日の海で一番楽しいであろうことをする」という考え方がピッタリと合致していたのも嬉しい点でした。
波が小さくてキレイならロングボードに乗り、チューブがあればショートボードやボディボードで潜り込み、大波にはガンボードでパドルアウトし、波がなければ釣りかスピアフィッシングに興じる。
風があればウィンドサーフィンやカイトサーフィンをし、仲間と一緒にカヌーやセーリングを楽しむ。
僕が「まさにウォーターマンスタイルだね」と言うと、「ウォーターマンスタイルか。その言葉気に入ったよ!」」と言ってくれたことはこれからも僕の心に残り続けるでしょう。
僕はこのJHCAのプロジェクトにはサーファー、SUP、ウィンドサーファー、ライフガードなど、垣根を取り払って参加してくれたらいいなと心から思います。
(写真左上から時計回りに:Uncle Ray、Alika Bumatay、Jason Anderson、Paul Higgins、Namahoe Soo、Hiroshi Nakatomi)
今回こうしてハワイ島から来た彼らと密に交流する機会を与えてくださった日本ハワイアンカヌー協会の中富さん、そして繋げてくださったサーフライダーファウンデーションジャパンの中川さん、快く受け入れてくれたハワイアンたち、そして各地でJHCAの活動に賛同・協力してくださっている方々に心から感謝しています。
また、日本ハワイアンカヌー協会では活動に興味・関心を持っていただけた方からのご寄付も受け付けているそうです。
JHCAのカヌーの維持費、建造費、団体の活動費は全て寄付から賄われています。
是非とも一緒にハワイアンカヌーを通して人生を豊かにしましょう!
https://www.kamakurago.com/donate
まずはこのコラムを通して少しでも多くの人にハワイアンカヌーの魅力を知ってもらえたらと切に願っております。
ハワイ島には野ブタや野ヤギ、更には野ウマまでいるほど自然が豊富だといいます。
また、世界にある全気候帯13のうち、2つ(サハラ気候・北極気候)を除く11の気候帯がこのハワイ島に存在していそうで、朝からマウナケア山でスノーボードをして、午後からボードショーツでサーフィンなんていうこともできてしまうそうです。
今回出会うことができたAlika、Jason、Paul、Namahoe、そしてUncle Rayたちもぜひハワイ島に遊びにおいで!と言ってくれたので、今年の冬のハワイ遠征の際にはハワイ島にも足を延ばしてみようと思います。
今後の活動やハワイレポートなどは僕のWEBサイト「YumaSurfMAG」にて綴っていくので、見てやってください。
(YumasurfMAG)
最後に、このInterStyle Magazineという、昔から大好きでよく読んでいたコラムに寄稿させていただけたこと、本当に嬉しく思います。
僕のコラムを読んでくださり、「面白かったよ!」とか「もっと書いて!」と言ってくださる方がとても多くて驚きました。
コラムを書くのは簡単ではありませんし、責任も感じますが、今後も色々なところでペンの力を借りての表現も積極的に続けていきたいと思います。
さて、そろそろ僕から次のコラムを書いてくれる人にバトンを渡したいと思います。
僕がバトンを渡すのは…
波乗り絵描人のKei Otsukaさんです!
(Me and Kei san)
Keiさんとはサーフィンを通して知り合い、今では一緒に「enjoy_. Project」をやらせてもらっていて、ほぼ毎週一緒にサーフィンやアートセッションをしている仲です。
彼の心の中にあるものを絵での表現を交えながら書かれたコラムを読んでみたいと思いました。
Keiさんよろしくです!
皆さまには全4回にわたって僕の拙いコラムにお付き合いいただきありがとうございました。
次はどこかの海でお会いしましょう!
高貫佑麻(タカヌキユウマ)プロフィール
千葉県御宿町出身、一宮町在住。1989年生まれの28歳。
様々なボードや波を乗りこなしてサーフィンの本質に迫る、ナチュラルな魅力を持ったプロサーファー。
毎冬ハワイのノースショアに通い、エピックなパイプラインをメイクするビッグウェーバー。
旅人であり、モノづくりや写真、環境問題などに取り組んでいる。サーフライダーファウンデーションジャパン・アンバサダー。
目指すはWaterMan。現在は自称WaterBaby。
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