ムラサキスポーツ上野店のライダーの1番のライダー業務は月2、3回行われてたスケートスクールの先生。
朝9時くらいにアキバに集合して昼まで滑ってアメ横でスタッフと参加してた生徒さんとライダーとみんなでランチして店行って流れてるビデオ見てあーだこーだ言ったりそこから上野公園とかにまた何人かで滑りに行ったり生徒と言うよりはチームみたいな感じで動いてた。
そんな当時の教え子って言うとえらそうでやだけど、何人かプロも出ちゃってる。
当時高校生だったエレメントのブチこと川渕裕聡。
良く友達と何人かで来て、アキバが無くなったその後も田町とかよく行って一緒に滑ってたね。
他には海外ブランドから直接サポートされてるACEこと杉本瑛生とかお母さんにダメ出しされてよく泣いててまあまあって言いながら練習してた。
あとは僕と一緒で今はムラサキスポーツの社員やってるムラパーの佐々木玲司、貞司兄とお揃いのDCのTシャツ来てお母さんとおじいちゃんに連れられて良く来てた。
まだまだ今でも上野、浅草、東京下町側辺りで滑ってる沢山の友達もこの頃から繋がってる人も多いしあんまり今は滑ってなくても会う人もいるね。
奥さんと出会ったのもこの頃のアキバ、元々ボディボードやっててムラサキスポーツにお客さんとして来ててスケートボードもやりたいってなって弟と参加してくれた。
徐々にコンテストの方も慣れてきてAJSAのアマクラスの大会にもエントリーするようになってきた。
その頃良く一緒に滑ってた西新井にあったショップrockslide所属の室井ちゃんとか林ひろたけとかとよく3人で地方の大会行ってたなぁ。
三重B7、富山桜ヶ池、山形酒田、埼玉ウィッキーズ、横須賀うみかぜ公園。
当時は全国アマチュア年間ランキング上位10名に入るか一発優勝するかがプロ昇格条件だったのでみんな地方までポイント稼ぎに夜中に頑張って乗り合いしたりして行ってた。
ショップスポンサーって言ってもエントリー費の当時4千円くらいかな?出して貰えるだけでかなりありがたかったけどよっぽど交通遠征費の方が大変だったな。
行くたびに毎回新しい出会いとか行くだけで起きるトラブルとか言えないエピソードもたくさん。
ヤバかったな色々。
もう時効?
だからちょっとだけ。
13MIND上田豪と室井ちゃんと行ったB7かな、行きはほぼ全部後部座席で寝てた豪くんだったのに全員予選落ちだったからなのか、大会後のアドレナリンなのか何故か帰り道の運転を交代させろと。
ちょっと眠くなってた所だったので交代。
ウチの当時のマイカーだったスバルレガシーをボクサーエンジンはこのくらい回さないとエンジンに良くないとか、昔は走り屋やってたとか言って140~150km位で飛ばすから助手席でマジでやめてくれって思ってた。
捕まっても良いけど死にたくは無いって思ってた。
結果眠いけど寝れない。
早く帰れたけど。笑
室井ちゃんは大体前日の夜に飲み過ぎて朝の練習時間がグダグダ。
やっと動けるかぐらいで予選開始。
そりゃ無理だろって感じで滑り出し、いきなり一発良いフリップ決めて、おー!ってなるけど後はノーメイクみたいな。
まあ楽しかったな。
でも結果出ない、みたいな。
出したいけどそこにあんまりこだわって無かったって言うのが本音かな。
優勝諦めてるって訳じゃないし、ただ誰かに勝ちたいって言うよりは自分のトリック全部メイクしたい。
って感じ。
伝わるかな。
めちゃくちゃ本気。
年に一回しか行かないパークに前日入ってめちゃくちゃな人数いる中練習してクタクタになるまで滑って健康ランドとか泊まったり、車で朝まで過ごした時もあった。
次の日が本番なのにバキバキの筋肉痛になっててそれでも朝からまた練習して、1分1トライの予選。
どっちかと言うと練習時間にどれだけ魅せれるかみたいな張り合いに燃えてた。
勝手にメラメラみたいな。
そんな練習時間にT19の大瀧さんとかFESN森田くん、ナカジとかがビデオカメラで撮影してくれたりしてくれてたので、むしろそっちの方がテンション上がってトライしてた。
そんな中、色んなメーカーの人や全国のライダーと繋がり出した。
大会結果より練習中の切磋琢磨の中でメイクしてハイファイブしてた事が評価されてた時代。
純粋にスケートボードを頑張れた。
楽しかった。
FESNのビデオでしか観てなかった各地のライダー達とその後も神戸や大阪、岡山、静岡行ったり撮影を共にするきっかけも大会時代の繋がりのお陰だと思う。
動いた分だけ成長してた。
輪が広がる感じ。
段々自分の得意なトリックが出来るセクションも増えてきたら今度は組み合わせで1分間流せる様になってきて予選も通過しだした。
そんな2001年シーズン第2戦富山で10位入賞してポイントゲット。
そこから運も味方に出来た。
普段なら飛行機だし行けるはずのない九州福岡の2SKATESってパークで行われた第3戦ムラサキカップに運営スタッフで行くはずのムラサキ本社の方が急遽行かれなくなりチケットが譲って貰える事に。
当然行ったことのないパークに前日1日の練習を全国から来てるプロに混ざってラインを考えながら決めてく。
セクションは大きめのアールと長めのカーブでなんとなく自分に合ってた。
アマクラスはやはり普段見かけない九州や沖縄、近畿地方の選手が中心だったが全国の猛者も当然いた。
予選は1分1トライ。
ここまで来て1分で終われない。
無事に通過して決勝へ。
緊張してあんまり他の人が滑ってるのを見てもなく覚えてない位だったがそれが良かったのか。
そして初表彰台3位。
AJSAの大会出だして3年目位で遂にきた。
当然年間ランキング急上昇なのでプロって物が見えて来た。
続く第4戦横須賀うみかぜ公園。
何度も足を運んだ慣れた場所での開催。
ただこの頃のうみかぜ公園は今あるセクションとは大分違って少なく、コンテスト用に特設セクションが設置されて割と皆んながイーブンな感じだった。
そして参加人数が異常に多くてアマクラスは200人越えなので練習時間はめちゃくちゃカオスだし、予選待ってるだけでクタクタの結構な精神戦だった。
そして予選は当然のように1分1トライ。
サバイバルな予選通過して一安心して決勝へ。
決勝1分間、ラストトリックは今でも得意なバリアルフリップを今でも有るコンクリートのクオーターでバックサイドビックスピンフリップ気味にメイクして手応えあり。
これはいったかな?って思った。
結果は準優勝。
甘く無かった笑
優勝はノーミスラインでバッチリだった今でも仲良しワッチこと光が丘の瀬和太。
その後の第5戦富山、最終戦三重B7は予選落ちだったが年間ランキング8位で終えてプロ昇格となりました。
同期には豪ちゃん、こたつくん、森本泰斗くん、荻堂くん、岡洋介くん、ワッチ、ハシポンとか今でもバリバリのスケーターが多くて嬉しい。
そこから沢山のスポンサーに恵まれてトランスワールドジャパンや、WHEEL、SB、OLLIEマガジン、FESN等色んなメディアへの露出も出来て今に至るって感じです。
三枝博貴に誘われてJOYNTをスタートしたのは2004年だからもう少し後のお話。
本当に人に恵まれた人生だと思う。
最終回が書き出したら長くなってしまったので最近の事に触れられ無かったけどまた何処かで続きが書けたらなと思います。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
機会をくれたシタマチフィルム玉ちゃんに感謝します。
次は千葉の生んだ小さな巨人。
ハイブリッドスケートボードの斉藤 孝吉くんです。
今でも現役で滑り続けるレジェンドです。
林秀晃プロフィール
生まれも育ちも下町浅草。
ムラサキスポーツ 本社契約プロライダーを経て現在はムラサキスポーツ渋谷スペイン坂店スタッフをしながら38:44JOYNTプロデュースしてます。もうすぐ42歳になりますがスケートボードはずーっと難しいけど、楽しい、新しい発見があるからやめられない。そんなおじさん。