前回はスケート始めてプロになるまでをザックリ振り返ってみました。
トリックの進化と共に流行りのトリックなんかも出て来る。
それはファッションも同様で、一言にスケーターファッションと言ってもその時代ごとに流行りがある。
スケート始めた頃は当然スケートブランドの服なんか持ってないから普通のTシャツにGパン、足元はコンバースALL STARハイカット。(持ってて良かったw)
それからDOG TOWNのキャップを買ってみたり、サンタクルズやパウエルのTシャツ買ってみたり、靴をVANSにしてみたり。
何と言っても当時爆発的に流行ってたVISIONの左右柄の違うハーフパンツは超お気に入りでした。
デッキなどのギアを出してるメーカー以外で主にスケーターが着てる服や身に付けてる物といえば、LIFE’S A BEACH、SWATCH、JIMMY’S、JAMS、BODY GLOVE、などなど、他にも沢山のブランドがあり、、、
サーフィンとスケートボードが今より密接な関係でサーフブランドをスケーターが着てるのなんて普通だったから派手な色の服着た人多かったよね(笑)
そんな中アメリカのスケート雑誌「THRASHER MAGAZINE」のパーカーは絶大なる人気で、本当にスケートボードやってる人しか着てなかった。
というよりスケーターしか知らないスケーターだけの物で、着てる事がとても誇らしかった。
そんなTHRASHERも今ではスケーターでも何でもない人でも着てしまってる事にずっと違和感を感じてるワタクシは心の狭い人間です(爆)
90年代に入るとスケーターの服がデカくなる!
TシャツもSやMなんて売って無く、XLやXXLが当たり前!パンツも片足に両足入る太さ。
その頃になるとスケートカンパニーも増えて、各メーカーが争うようにデカイ服をリリースするわけですよ。BLINDのGパンでかかったな~笑)
なのでスポンサーから貰える服も当然デカイ物ばかりになる。あんまり好きじゃない。けどそれしかない。困る。
そんな時ふと「別にスケートブランドの服着なくてもスケートはできるよな〜」って思ったけどお金無いから買える物も限られるから古着やバンドtee着て滑るようになった。
どうしても好みの物が無ければ作れば良いや!って事で、押入れの奥に眠ってた母譲りのミシンが復活するのでした。
最初は自分のや友達の服を直したりカスタムしたりと遊び感覚だったんだけど、アンダーカバーのジョニ夫くんとの出会いで自分の行く道が決まったと言っても過言ではないと思う。
ヒロシくん繋がりで、ジョニ夫くんの周りにはムラジュンはじめ10代の頃から知ってるスケーターが集まってた。
なので知り合ってからは東京に行く度にジョニ夫くん家に泊めてもらい、みんなでワイワイして過ごしながら時々お手伝いをしてて、ここでシルクスクリーンプリントを実際に体験させてもらいました。
そのうち「お前も服作れるんだったらブランドの名前付けて売れば良いじゃん」って言われ、そんな発想が無かった自分には目から鱗!!!
1993年6月。ワタクシ若干21歳。
こうやって[life at your own RISK]というブランドが誕生しました。
長いから言葉に出して言う時はRISKで良いやって最初から思ってた(笑)
それからはブランドとして作ったTシャツを自分が出るイベントの会場で販売したり、全国各地でスケートボードのコンテストやデモに行けばそこで会った友達にあげて着てもらったり、DJやバンドの友達にも着てもらったりして仲間内から少しづつ広まり、バイトしながら細々とだけど楽しくやってました。
そしたら数年後、世の中は空前のインディーズバンドブーム!それに比例するようにインディーズのドメスティックブランドブーム!!
スケート、バンド、ブランド、全部が良いバランスで盛り上がった時代の波に少し乗せてもらい、沢山の友達がRISKの服を着てくれて、色んな雑誌にも出させていただき、大勢の人に知ってもらえるようになりました。
仕事に限らずスケートだってバンドだって長くやってりゃ良い時もあるし悪い時もある。
まぁよく26年も続いてるもんだ(笑)
この場を借りて言わせて頂きたい!
「数え切れない程の沢山の方々に支えられて26年、心からありがとうございます」
第2回にして最終回っぽい締めになったけど、あと2回お付き合いください(笑)
次はスケートと音楽について個人的な偏った見解を書こうと思います。
そこんとこヨロシク!
higo-viciousプロフィール
1972年熊本市生まれ。
instant所属
AJSA公認スケートボードインストラクター
アパレルブランド「RISK」のオーナー兼デザイナー
TH eCOMMONSとアニパンクのBass
ロックDJ