OLEDICKFOGGYのボビー(伊藤)からバトンが回って来てコラム書く事になりましたhigo-viciousです。
今まで自分のスケート人生を振り返った事とか書く事も無かったんで、せっかくなんで今回少しだけ振り返ってみたいなと思います。
「お前もスケボーやれ!」
高校1年の夏の終わり頃、家の前で近所の先輩に言われたのこの一言から俺のスケートボード人生が始まった。
当時は第二次スケートブームの始まりだったらしく、街中やテレビでも少し見かけるスケボーに何となく興味は持ってた。俺の家の前でも中学の先輩たちが滑ってて「カッコイイな〜」と思ってたから、仲間に誘ってもらえた感じがして嬉しかった事を覚えてます。キッカケをありがとうございました!
(当時先輩の言う事は絶対な時代だった事を付け加えておきますw)
とは言えデッキが無い…最初は先輩から借りたりしてたけど自分のデッキが欲しい。なんとかお金集めて初めてスケボー屋さんに連れて行ってもらう。O.D.S(OUTDOOR SPORTS)超ナウい店だった。
店の人と先輩に言われるがまま買ったのはVISIONのマーク・ゴンザレス(銀色)。大正解!
それからは朝早起きして市場でバイトして学校行って部活して帰ったらスケボーしての毎日。
何も出来ない0の状態から少しづつ出来るようになって行くのが楽しかった。
出来るようになった技をノートにメモしたり、出来るようになった技を忘れないように必ず練習したりと、今思えば好きな事に対しての真面目っぷりハンパない(笑)
そうなって来るといつも見てた何て事ない普通の景色が今までと違って見えるようになる。
スケーターなら分かると思うけど、縁石・壁・坂・階段・ちょっと路面の良いただの道でさえ全部スケートスポットにしか見えなくなるのですよ。
1年も経てば一緒に滑る友達も増えて色んな所で滑るようになったわけです。
ラッキーな事に熊本には街の中心地に「ロサンゼルスクラブ」という室内でスケートボードが滑れて、さらにビリヤードとダーツも出来る素晴らしい施設があったので、色んな所から上手い人が来てレベルの高い滑りを見る事が出来た。ここでもメチャメチャ滑った。(※三軒茶屋にもあり、全国的にはそっちが有名だった)
雑誌の中の少ない情報を穴が開くほど見て、同い年なのにプロとして雑誌に載ってる人が何人もいたりして、プロってどうやったらなれるんだろう?とだんだん思うようになったのが16歳。
当時スケートボード専門店が無かったんで、この頃は毎日のようにスケートボードを売ってるサーフショップ「BIG PINK」(後に「a-PLANS」と改名)に行ってはアメリカのスケートビデオを見せてもらい、頭に焼き付けて滑りに行く日々。
サーフショップにはカッコイイ大人の人が沢山来るわけで、音楽・ファッション・遊び、色んな事を教えてくれて色んな意味でメチャメチャ可愛がられてたな(笑)
そんな大人たちから口を揃えて「上手くなりたければ上手い奴と一緒に滑れ!」「プロになりたいならプロと滑れ!」「プロが滑ってる東京か大阪に行ってみろ!」と言われてたような気がする。
勢いとパッションで意を決して大阪へ!
普段電車とか乗らないから散々迷ってやっとの思いで出来たばかりのアスコットボードパークに行った。
雑誌で見た事ある人が滑ってる!アキ秋山だ!アゴローだ!
毎日ガンガン滑っててそこそこ上手くなってた気がしてた俺だったけど、パーク内をぐるぐる滑りながらローカルの滑りを見てたら自分の中の自信が一気に崩れた。
というか「レベルを知った」と言った方が正しいかもしれない。
熊本から来たと言ったらアキさんが晩御飯に誘ってくれて、いっぱいスケートの話をしまくった。と思ってたけど、今思い返してみたら多分オレが質問しまくってた気がする(汗)アキさんあの時はスミマセン(笑)
自分にとって初めてプロと話せた貴重な時間、本当に嬉しかったな〜
時代は昭和から平成に変わりワタクシ17歳、
夏休みだし行くしかない!と決めて、福岡のアンギとかを誘って「青春18きっぷ」を片手に普通列車で今度は東京にGO!!
片道一日半。野宿。たくさんの出会い。スタンドバイミー状態(笑)。大変だったけど旅の全てが楽しかった。
いろんな人といろんなスポットで滑って、そこそこプロのみんなの滑りにも付いて行けてる自分がすごく嬉しかった。
それからはスカイメイトという武器を使い一人で頻繁に東京に行くようになり、長島亘や目黒のスケーターと一緒に行動するようになって、当時大学生だった本間さん(instant代表)や当時ストーミーで働いてた追川さんに世話になったりして、ストーミーに入り浸ってダイコン君やタケシとか後のOWNクルーと遊んだりしてて、ヒロシくん(藤原ヒロシ)と会った時は「ラジカルスケートブックに載ってたDJの人だ!」って思ったり(笑)、その後のスケート人生の基が出来たんじゃないかと思う。多分。
本間さんに関しては今だに超世話になってるしね(笑)
それからは行動範囲も一気に広がり友達も輪も広がり、気がつけば雑誌に載ってるプロスケーターが友達だらけ。自分の中でハッキリと「俺もプロになる!」と意識し始めた17歳の冬でした。
それから数年後、「TOKYO Z BOYS」の一員となり、大会に行ったら「もうそろそろプロクラスで出ないとダメだよ」と言ってもらえるようになって、晴れてプロスケーターとなるわけです。
19歳か20歳の頃。いつの間にかすぎて覚えてない(笑)
そうすると周りから「プロになったんならアメリカに行って本場のスケートを体感した方が良い」と言われる。
そう!高校の頃「上手くなりたければ上手い奴と一緒に滑れ!」「プロになりたいならプロと滑れ!」「プロが滑ってる東京か大阪に行ってみろ!」と言われたあの感覚を思い出し、借金してスケートボードの本場アメリカへ単身乗り込む!
現地では友達の家に居候させてもらって、自由にスケートできて友達が出来てスノーボードまで体験できて、本当に行って良かったと思った。
アメリカって国を肌で感れた事は自分のスケートスタイルにとっても、一人の人間としての自分自身にとっても、大きな財産になったと思う。
本場でしか体験出来ない事もいっぱいあったし、怖い思いもしたな〜(爆)
この頃スケート業界は小さいウィールにブカブカの服が大ブーム!
俺の中で何か違う感とパンク魂が溢れ出す(爆)
次回はスケーターのファッションや自分のオリジナルブランドRISKの立ち上げについて書こうと思います。
そこんとこヨロシク!
higo-viciousプロフィール
1972年熊本市生まれ。
instant所属
AJSA公認スケートボードインストラクター
アパレルブランド「RISK」のオーナー兼デザイナー
TH eCOMMONSとアニパンクのBass
ロックDJ