ホクレア号は昨日の七里が浜来航の余韻冷めやらぬまま
ホクレア号世界航海最終寄港地ヨコハマに入港。
僕はビーチクラブの仲間と横浜に向かい出迎えの時を心待ちしていた。
すでに船を着けるプカリ桟橋にはたくさんの人達であふれかえり他の寄港地よりも賑わいを漂わせていた。
フラダンスを踊りホラ貝を響かせ歌を唄う我らの喜び。
ホクレア号はそれに応えるように、いつものようにカマヘレ号から離れて単独走行になった。
この航海のラストランデブー。
セイルをなびかせ待ちわびている人たちの思いにこたえている。
聞くところによると、
150年前にハワイ王朝の船がトラブルで横浜港に緊急入港した話を聞いた。
当時の明治政府がハワイの船を助け心寄せたとき、助けられたハワイの人達が日本人に感謝の気持ちを表し、命のお礼 フラダンスを踊った。
今回は日本人がその魂のフラダンスを踊ってホクレア号をでむかえていた。
僕はこのような心熱くなる話が好きで150年前の想像をしながら
足早にそしてホクレアが桟橋に着くタイミングに合わせ、人混みをかき分けながら桟橋に入った。
ホクレア号から後輩の荒木汰久治が船を陸と結ぶ、ぶっとい1番綱をもっている姿が目に入った。
以前エディアイカウがホクレア号に乗っているときは1番前右舷(右前)によくいた。横に胸を張り生き生きとした顔。
ヒゲを無造作に蓄え、真っ黒に日焼けした肌、そのたたずまいで、もう彼がタヒチからホクレア号に乗り込み荒れ狂う海を渡って来たのは一目瞭然だった。
汰久治はこの日本航海でさらに日本人たちとの絆を深めてくれたクルーの1人でもある。そして今では日本を代表するウォーターマンである!!
彼は大学の後輩で、彼の今までのウォーターマンへの道のりはだいたい知っていることもあり僕の心もさらに熱くなった。
ホクレア号がこの航海の最終寄港地ヨコハマに近づきついにピリオドをうつ。
ランデブーも終盤。
ホクレア号がプカリ桟橋に20メートル程近づき、ほんの20秒くらいの間に、
この航海で見てきた もの 出会った人たち なんとなく、しかし強くランダムに僕の頭を駆けめぐった。
現実と夢のミックスな感覚。
不思議な感じがした。
そしてプカリ桟橋一帯にホラ貝の音と人々の歓声が心地よく風のようにさりげなく、また太陽のように暖かく大きな時間の流れを感じた。
1番綱を投げた汰久治。
なんと僕の目の前に飛んできた!!!!
船乗りの心情として1番綱は大切なもの。
特にホクレア号の1番綱!!僕にとってさらに深い意味合いのあるもの…。
僕が掴んでいいのかと思うと同時に1番綱をつかんでしまった。
これはなんと光栄なことだとうれしさと感動で熱くなる。
最近になって汰久治から
「あの1番綱はクジライさんがいる時はクジライさんめがけて投げていた!」
ということを聞かされた。
何年も1番綱をとったと自慢していた自分。笑
実は汰久治の粋な計らいだった。カッコイイことをしてくれるぜ!!
後輩に1本とられた!
その1番綱は無事プカリ桟橋にハワイ観光局イチクラ氏の手によってしっかりと結ばれこの航海はピリオドをうった。
安堵感と喜びのなか歓迎セレモニーが始まった。
さすがホクレア号あたりを見渡すと
どこかで見た顔・著名人・海の人たち
そしてなんとロイヤルファミリー高ノ宮様も出迎えにいらっしゃりクルー1人1人に挨拶をしていた。
誇り高く大切な時となってプカリ桟橋は安堵と喜びに包まれた1日となった。
さてここからはサムライ船カマヘレ号に戻る。
ベイサイドマリーナにドックにはいり修理が終わり次第ハワイに向けて出航。
だがカマヘレ号クルーが足りない…。
三崎に出迎えに行ったときにカマヘレ号船長マイクテーラー氏に会い航海経験があるならクルーにならないか?と軽く誘いを受けていた。
冷蔵庫・トイレなしの航海。
ノンストップ!パールハーバー、エンジン走行。
と聞きそんな悪条件では行く気になれない…。
と思っていた。
しかし僕自身このホクレア号の来航にもっと何か自分なりに手伝えることができないかと常々思っていたのは確かである。
やはり海の者、船があると乗りたくなる、パドルがあれば漕ぎたくなる!!
その夜カマヘレ号に乗ること決めた。
鯨井保年プロフィール
愛知県生まれ 東海大学出身
学生時代トライアスロン・ライフセーヴィング部に所属
経歴
1994年 ビーチフラッグス世界大会(イギリス ニューキィ) 優勝
1996年 ビーチフラッグス世界大会(南アフリカ ダーバン) 優勝
2000年 大西洋横断(ポルトガル リスボン~マデーラ島~カナリア諸島~カーボベルデ諸島~カリブ海アンティグア島)
2007年 太平洋横断 ホクレア号サポート船カマヘレ号(横浜~パールハーバー)
2016年 ライフセーヴィング世界選手権(オランダ ノールドウェイク)
ビーチフラッグスマスターズ部門 3位