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COLUMN |
SURF COLUMN 2012/11/7 |
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小山内 隆(※写真、左から3人目)
東京都生まれ。編集者。サーフィンライフ誌編集長を経てフリーランスへ。
ザ・サーファーズ・ジャーナル日本語版の創刊に携わる。
創刊時より寄稿するブルー(ネコパブリッシング刊)ではJAPANESE SURF SIDE STORYを
オーシャンズ(ライトハウスメディア刊)ではSEAWARD TRIPを連載中。
昨年は東日本大震災復興支援を目的としたチャリティー・オークションのグリコーゲンを
オーガナイズ。他、ブルータス、ポパイ、ターザン、スペクテイター、ヴィヴァ・コン・
アグアなど業界の内外問わず海やサーフ関連の記事を執筆する。海側の価値観を都会へ。
都会的な視点を海側へ。執筆する媒体によって立ち位置のバランスをはかりつつ、
今後は両者がクロスしていくこと展開が面白いのではないかと企み中。 |
1回目 |
2012/10/17 |
『ハミだすことのススメ』 |
2回目 |
2012/11/7 |
『新しい時代のサーフィンについて』 |
3回目 |
2012/11/21 |
『中東サーファーズ』 |
4回目 |
2012/12/5 |
『これからが面白い雑誌の話』 |
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『新しい時代のサーフィンについて』
先日、写真家のパトリック・トレフツから最新刊の案内がきた。サーファーズブラッド(SURFER’S BLOOD)と題する写真集は、サーファーをひとつのファミリー的存在と捉え、サーフカルチャーの血筋を追うように撮り下ろした作品がおさめられている。昨秋に会った時には年内(2011年)に発売されるとのことだったが、右往左往した後、ようやく先日リリースにこぎつけたらしい。版元がブルックリンのパワーハウスブックス(PowerHouse Books)というポップカルチャーを得意とする出版社であることも、サーフィンの世界をより広く発信したいという彼のこだわりだった。
今ではサンタクルーズで、波のリズムと共にのんびりと暮らすパトリックだが、出身はドイツのデュッセルドルフだ。父親が写真家という家庭に育ち、カエルの子はカエルのように、写真を覚えるとニューヨークへわたり、そこから中南米を経てアメリカ西海岸へと移動していった。サンタクルーズにたどり着くと何か運命を感じたのか、じっくりと腰を据え、地元のサーフコミュニティーに入り込み、地元の新聞などのメディアでキャリアをスタートさせた。イディオシンクラシーズ(IDIOSYNCRASIES)、スレッド(THREAD)という映像作品を制作した時には、もう世界のサーフコミュニティーのなかに名前を浸透させていた。
ヨーロッパを離れた理由については「保守的すぎるから」と言っていたことを思い出す。「新しい創造に対して評価されにくい」とも言っていたが、ヨーロッパのなかでもグラマーさに欠け、サッカー以外の娯楽のないドイツは、刺激を求めるクリエイターにとって退屈な場所だったのかもしれない。
ドイツはサーフカルチャーともほぼ無縁の土地。しかしサーファーはいるし、ミュンヘンではリバーサーフィンで有名だ。先日そのスポットを訪れる機会に恵まれたが、なんと驚くことにミュンヘンの中心部にあった。ミュンヘンは人口130万強で、仙台市や広島市よりも多く、福岡市よりわずか少ない人が住むドイツで3番目に大きい都市。その街の中心を流れるアイスバッハという川で、ドイツのサーファーはフローライダー的なサーフィンを楽しんでいた。
彼らのフィールドであるアイスバッハとは氷の川という意味で、その名の通りに水はものすごく冷たいが、それでもサーファーの姿は真冬さえ見られるという。理由は、海まで遠い、のひと言に尽きる。ローカルに言わせれば、ミュンヘンからだとドイツ北部の北海まで9時間、イタリアの地中海まで6時間、フランスの大西洋までは14時間のドライブが必要になる。サーファーには、まったくもって恵まれていない土地なのである。にもかかわらずサーファーはいるという、そのコントラストがおもしろかった。
しばらく前、イギリスのコーンウォールを起点に、フランス、スペイン、ポルトガルと大西洋に沿ってサーフトリップをしたことがある。その模様はサファリ(Safari)、オンザボード(ON THE BOARD)をはじめとする各誌に寄稿したが、帰国した後に千葉公平さんに「ポルトガルの果て、ユーラシア大陸の果てまで行きましたが、波はあったしサーファーもいましたよ」と伝えてみた。すると公平さんは「ざまあみろだな」という言葉を口にした。おそらく本人は覚えていないだろうがとても印象に残る言葉で、それはきっと、公平さんや公平さん世代のサーファーにとって、世界の果てまでサーフィンが浸透したという事実が、大きな勝利を示す事実だったのではないか、と思えるからだ。
今やサーフィンとは成熟したスポーツで、誰もが耳にしたことくらいはあるほどに浸透した。それが現代のサーフィン観である一方、公平さん世代にとっての世間的なサーフィン観とは不良の象徴とでも言うべきもの、まったく社会性のないものだった。
それでも公平さんはサーフィンの素晴らしさを信じた。今も台風の波やパイプラインさえショートボードでドロップできるよう、生活そのものをサーフィンに捧げて過ごしているのは、その素晴らしさを、身をもって証明したいとするあらわれなのだと思う。だからこそ、世界の果てまでサーフィンが浸透した事実は、自身の思いが証明された事実でもあり、「ざまあみろ」とは、渾身の勝利宣言だったのである。
大陸の果て、内地の奥深くまで行って改めて思うのは、もうサーフィンは新しくない、ということだ。サーフィンはもう誰かが頂点にたってコントロールできるものではなく、プレイヤーそれぞれが主役となる、みんなのものになったのだ。もはや大きなスタンダードはなく、100人いれば100通りのスタンダードがあり、そのすべてが正解という時代になったともいえる。
そして、もしこの個々の点が有機的に線になり、面になると、サーフィンは新しい世紀を迎えるように思う。
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