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COLUMN |
SURF COLUMN 2008/6/4 |
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『アメリカ被れの日本人』
アメリカに到着した2002年4月4日、当てもなくアメリカに出てきた僕は、学生時代に友達の友達であったアフリカ系アメリカ人の携帯電話に電話をした。すると、彼は、「***駅に何時に来い」と言ってくれた。そして、LAの空港から、バスに乗り、地下鉄に乗って、何だか訳も分からずぐるぐるぐるぐると同じ電車を行ったり、来たり・・・。恐らくすんなり行ければ1時間かそこらで行けたところを3時間ほどかけて、その駅へ辿り着いた。
翌朝、彼に僕が通うことになっていた語学学校まで車で送ってもらい、そこで彼と別れた。日本のオフィス街の一角にあるようなその建物の中に、僕が通う語学学校はあった。さくっと手続きを済ませ、僕は先生にこう言った。「泊まるところも車も自転車も何もない」すると、先生は呆れた顔をして僕に先生の空いている部屋を2週間限定で貸してくれた。
アメリカ人は厳しい。翌朝、学校へ行こうと先生に言うと、俺は行かないからバスで行けと言われた。食事にしてもそんな具合だ。俺は自分の分だけ作った。お前もそうしろ。仕方がないので、歩いて、バス停まで行き、そこからバスに乗り、学校へ行った。そして、日本人の友人ができた。彼の名は周平といって、もう2年以上もアメリカで英語を学んでいるという。年齢は僕よりも3つくらい年下で車も持っていた。とんとん拍子に話しは進み、彼の空いている部屋を格安でルームシェアさせてもらうことになった。そして、彼のお陰で自分の足になる自転車も格安でゲットした。
そして、クラスが始まった。小中高大学と16年間も学校に通ったのに、また通うことになるとは・・・。そう、この旅の目的は、英語を学んでアメリカの大学に行くことではない。サーフィンをして、現地サーファーの海の守り方を学ぶことである。しかし、旅が始まって1週間経った僕は、まだ海すら見ていなかった。
で、クラスはというと、もう最悪。テラボーだ。ヒドすぎた・・・。ひとクラス20人くらいの生徒は、ほぼ日本人。クラスが終われば、あちこちで日本語が飛び交い、どこどこのクラブへ行くやら、誰々と誰々が付き合っているやら、最悪だった。そんな中、僕は毎朝8時に起きて、朝食を取り、ランチボックスを手作りし、学校へ行き、学校が終わった15時頃からは図書館へ行き、18時頃からはアダルトスクールと呼ばれる無料で英語のクラスが受けられる学校へ通い、帰宅は21時頃という日々を繰り返した。そう、僕はこの際、平日はひたすら英語の勉強に励み、土日はどうにかして海に行こうと決めた。
周りの友達は本当にゆるゆるであった。日本と何も変わらない、むしろ日本人がアメリカに被れているだけ、そんな環境であった。皆、正直、ダサかった。気の緩そうな日本人の女もゴロゴロいたけど、120%でこの旅に出てきた僕は、そんなことは眼中になかった。
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