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 COLUMN
surf columnSURF COLUMN 2011/6/1  
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越後 将平
1976年10月31日 宮城県出身 2000年にプロ転向
1回目

2011/5/18

『サーフショップ』
2回目 2011/6/1 『父親と私の育った環境』
3回目 2011/6/15 『影響』
4回目 2011/7/6 『繋がり』

『父親と私の育った環境』

子供ころから父直伝の遊びは
斜面を使った遊びが多かったような気がする
父はサーフショップを営み
冬はスキーなど教えていたので
生まれた時から傾斜を滑る遊びは身近なものでもあった
しかし
サーフィンは当時子供にはできない・・・・
そう教えられ、大きくなったら一緒にやろうと父に言われた
現代のようにウェットスーツの進化はまだなく
オール5ミリのセミドライとはいえ
寒さが厳しいので成長の妨げになると言われ続けた記憶がある。

気候的に南国ではなく
四季の変化がめまぐるしい
東北に生まれたので年中海がすぐそばにあったわけではない。
海へ行っても最初は砂遊び
遊び飽きると
車の中でゴロゴロしたり
そのうちスケートボードを手にすることに。
幼少時代はサーフボードよりもスケートボードでよく遊んだ。
今のようなRを使ったり飛んだりはできなかったが
当時お店があった五橋の店の裏にある駐車場や店前の道路で遊んでいた。
スケートボードをするときはヘルメットをかぶることが親との約束だったと記憶している
またよくお店にいた大人に遊んでもらい
店の近くにあった大学の学食やお祭りや公園で延々と付き合ってもらったりしたものだ

また店は
サーフィンの多くを知らない私には
珍しいものが多く商品をストックしている部屋があったり
いろいろなサーフボードにウェットスーツ
派手な服飾などなど
日焼けした大人が多く不思議な空間だった。
もちろんサーフショップの意味なんか全く自分にはわかるはずもないのだが・・・・
季節は変わり
冬は面白山というスキー場へ泊まりで
雪遊びもさせてもらった。
今思えば一般の家庭とは全く違う生活を送っていたことになる。
海や川、山へ週末ともなれば多くのお客さんと父は楽しい時間を過ごしていた。

父はスキーのインストラクターもしていたが
数年後
気がつけば
父はスキーではなく
当時の名称だと確か
スノーサーフィン(スノーボード)にはまり
山へ行くときは大人のお客さんたちと一緒に遊んでもらった。
この時
いた方たちの中には
今でもお付き合いがあり、今では一緒にサーフしたり
お酒を飲む機会もできた。

またよく記憶しているのは
父は湘南へ買い付けに行っていたようでついて行くこともあった。
今でも覚えているのは長い道中、
目的地の茅ヶ崎、大磯の風景
子供の自分から見てもとても個性的な大人が多く感じた

また小学生になり夏休みの最後は父とNSAのコンテストに行くことが夏の終わりの行事になった。
記憶している初めての全日本選手権は
四国の生見で開催された大会だった
車とフェリーを使った小さな私にはすごい長旅だった

父はいろんなクラスにエントリーをしていた記憶がある
遊んでもらうどころか
砂浜をあちこちヒート毎に移動し後ついてまわった。
ある時
海に入ろうと言われた。
大きなタンデム用のボードで
ライフジャケットの上からコンテスト用のゼッケンを身につけ海へはいった。
父には言われるままに動いた。
今思えば
浮力のあるボードの先端付近とはいえ
立ち上がることはとても難しく感じながら
海へ入ると
恐怖と
僅かだがサーフィンへ好奇心が湧き始めた。
なぜか海からあがると恥ずかしくてずっと下を見ながら歩いていた
その頃はコンテストがなにかはわからず
ただ凄い人数が海岸にいたような印象
毎年夏になると各地の全日本へ行きある人に影響を受けた。
誰かは次回に書きたいと思います。


surf column越後 将平
1回目

2011/5/18

『サーフショップ』
2回目 2011/6/1 『父親と私の育った環境』
3回目 2011/6/15 『影響』
4回目 2011/7/6 『繋がり』
 
 
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