|
|
COLUMN |
SURF COLUMN 2008/9/17 |
|
『SURFING IS MY LIFE WORK』
日本におけるサーフィンの歴史は、ほぼ私の年齢と同じぐらいである。
というのも、私の父は日本のサーフィン界でレジェンドの一人といわれており、
その父がサーフィンに出会ったのは私が生まれて間もない頃でした。
その頃サラリーマンだった父は、
米軍キャンプの米兵達が海でサーフィンをしていたのを見て興味を持ったそうです。
次第にサーフィンへの熱は高まり、ついに日本で初めてサーフボードを輸入し、
販売したといわれる西武百貨店に並んでいたロングボードを購入してしまいました。
当時父の月給が3万円ちょっとに対し、そのロングボードの価格は12万3千円だったそうです。
これをきっかけに西武百貨店の力添えで今の日本サーフィン連盟の発足に至りました。
この頃から私の人生は、幼少期の私の意思と関係なくサーフィンと携わっていくことになりました。
あまり記憶には無いのですが、
ほとんど週末には季節関係なく、父と母は私を連れて海に行っていたそうです。
次第にサーフィンするだけでは物足りなくなった父は、私が小学校3年生の時に、
千葉市内の自宅の1階にサーフショップとスナック(今で言うとカウンターバー)をオープンしました。
その頃サーフショップといっても一般の人たちには何のお店か全く分からない感じでした。
昼間はサラリーマン、夜はサーフショップ&バーのマスターとして父と母と二人で営んでました。
次第にその店には様々な人たちが出入りするようになり、
千葉市内ではアンダーグラウンドな店として一世を風靡したとか、しないとか…
そのうち店のお客さん達もサーフィンを始めるようになり、
当時私より10~15歳ぐらい年上の人たちが変わっていく姿は
私から見るとサーフィンは不良更生スポーツのようでした。
そのメンバーを中心に千葉市内で初(?)のサーフィンクラブ『ドブサーフィンクラブ』が発足されました。
その影響で私も10歳で初めての自分のサーフボードをゲットし、サーフィンを始めることになりました。
週末になるとクラブ員のみんなが店に集合して、
レースをするかのようにかっ飛ばして海へ向かったのを思い出します。
またそのメンバーの人達とハワイへ行ったのもちょうどその頃でした。
このように幼少期から少年期にかけても
周囲を巻き込みながらサーフィンと切っても切れない状態になっていきました。
しかし当時小学生だった私には同級生からの多くの誘惑があり、
サーフィンをドロップアウトし、野球にのめりこんで行くことになってしまうのでした。
つづく…
|
|
|
|
|
Copy right © INTERSTYLE Co.,Ltd All Rights Reserved. |
|