|
|
COLUMN |
SURF COLUMN 2015/1/21 |
|
|
佐藤 弘一朗
1973年 11月17日生まれ。
15歳でサーフィンを始めるが20歳の時あることを機会にやめてしまう…
またあることが機会で27歳の時にもう一度サーフィンを最初からやり始め
現在サーフショップを経営する傍らNSAサーキットに積極的に参戦中。
コンペティションは勝つのが難しいのでは無く心からコンテストを楽しむのが難しいと
考える現在41歳のアマチュアコンペティター。
2013.2014.
ALL JAPAN SURFING GRAND CHAMPION GAMES シニアマスタークラス出場権獲得
職業
タスクサーフボード仙台店 FC仙台店代表
REVOLVER トラベルサポートギア代表
スポンサー:RISING SUN surfboards/
FLAVOR6 wetsuits/
Black Flys eyewear/
VESTAL/
DESTINATION/
BLACK RACE/
(有)カービング/
IN DEPTH/
REVOLVER
ブログ http://revolver1.exblog.jp/ |
|
|
『心・技・体、戦友との出会い、苦難、挑戦する事の素晴らしさ』
それからの私は日々のサーフィンにお店の経営にと積極的に取り組んだ。
まるで失われた時間を必死で取り戻すかのように毎日海へ通い、
地方のローカルコンテストにも参戦し勝てる時も負ける時も心からコンテストを楽しんだ。
そんな中、2007年からスタートしたNSAポイントランキング対象で
NSA公認コンテストが湘南西支部さんの主催で開催される事を知り、私は即座に参加を申し込んだ。
私は心が踊った。
全日本サーフィン選手権大会や全日本級別選手権大会、
ジュニアマスターズサーフィン選手権大会以外でも
全国から腕に自信のある強豪選手の集まるコンテストが開催されるのだ。
そして出場し、勝ち上がれば
それ相応のポイントが与えられランキング形式でNSAサイトに全国発表される。
根拠の無い自信だけはあった。
膨れ上がる気持ちを抑えながらようやく開催当日の朝を迎える。
開催当日のポイントはコシハラくらいのサイズとややチョッピーなコンディションだったと記憶している。
ヒート表を確認すると全日本などで一度は耳にした事のある強豪選手ばかりだ。
今現在まで何度もマッチアップを繰り返した戦友達が当時から公認コンテストに興味を持ち多く参加していた。
湘南西で2012.2013年度の全日本チャンピオン宗政選手や磯部選手、千葉の坂本選手、伊豆の井出選手や原選手、進士選手、東京からは小林選手や渡辺選手、横浜の石田選手、現在私のサーフィントレーナーで湘南藤沢の佐藤選手などその他多数の強豪選手がマスタークラスやグランドマスタークラスにそれぞれ参加していた。(当時の年齢別クラス編成は現在と異なります)
今ではマッチアップしたら笑っていられないくらいの実力派の強豪選手の集まりだったが、
私は順調にコマを進めセミファイナルまで勝ち上がる事ができた。
何とかここを勝ち上がればファイナルだ!と意気込むも…
4位敗退…
お店のライダーや一緒にいた仲間はよく頑張ったと褒めてくれた。
だが私はひとつの懸念を抱いていた。
レベルが違いすぎる…
勝てるわけがない…
私がサーフィンにコンテストに復帰し、
お店も始めて手探りではあったがガムシャラにやってきて初めての屈辱感だった。
世の中上には上がいる。
今思えばセミファイナルまでは運も見方して何とかラウンドアップできたのだが
セミファイナルでは全く歯がたたず。
まさにコテンパンのボッコボコ…
言葉が悪いが現実には勝ち目の無い勝負だった。
ヒート中ではテクニックはもちろんパドリングの競り負けやポジション取り、うねりの予測や1日を通しての潮の動き、そしてなにより自分よりはるかにテクニックが上手な選手の闘争心に負かされていちばん大切な気持ちが負けていた。
ファイナルに勝ち上がった選手は全てに対して私の何倍も何十倍も上手だったのだ。
(ファイナルに勝ち上がった選手は湘南西支部の宗政選手と山田選手、伊豆支部の原選手と横浜支部の石田選手)
そんな簡単に勝てる相手ではなかった。
たとえそのヒートの12分間、運が100%味方しても勝てなかっただろう。
私がサーフィンから遠ざかっていた7年の間に彼らは日々努力していたのだから。
その時、私は漠然とだが、
毎日毎日海に通い練習すれば必ず上手くなるわけでもコンテストで勝てる訳でもないと感じた。
何かが足りない…いや足りなすぎる。
私に足りないのは経験、実績、経歴、
過去に何度も全日本サーフィン選手権大会を上位まで勝ち上がった経験のある選手相手に
そうやすやすと勝てるはずもない。
私がサーフィンをやめていた7年間で失ったものは計り知れなく大きなものだったかも知れない。
私はそのコンテストで良くも悪くも、また多くの事を学び、山ほどの課題を背負って帰った。
それからの私は公認コンテストに参戦するも鳴かず飛ばずの成績が続いた。
現実を思い知らされる度に私はいつしか予選敗退の負け癖が染み付いてしまったが、
悩む中もコンテストを楽しみ全国の強豪選手とも親睦を深め、
より多くの選手のスタイルを模索し勉強していった。
そんな中、以前から交流のあった千葉西支部の豊田泰史選手とコンテストの時間を共有する機会が増えた。
彼は1日のコンテストを通して、惜しみなく親切にアドバイスを促してくれた。
彼は千葉県でサーフショップを経営する傍らコンテストに積極的に参戦し、日本代表として世界選手権にも参戦した経験を持ち、NSAコンテストにおいても数々のビックタイトル保持者である。
彼は喜怒哀楽が安定し、常に平常心、そして他の選手への指導力、説得力、私に対しては常に「よく俺の見てろ」と背中で語ってくれる彼に私はいつの間にかコンテストの師と仰ぐようになった。
今現在でも彼の足元にも及びはしないが、私は豊田氏のコンテストスタイルを軸に決めた。
時には優しく、時には厳しくもあるが、
豊田氏の指導力の正確さは私の未完成な部分を少しずつ補っていってくれた。
負けん気の強さだけを取り柄に日々の葛藤の中、
対戦相手から私は多くを学び、やがて戦友となっていく中で私はどれだけ成長しただろう。
R1、R2と絶好調に勝ち上がる時もあったが、
ブランクが長かったせいか好不調の波も激しく
R1で全く何も出来ずに敗退する事も重なり嫌気が指す事もよくあった。
どんなに頑張っても、どんなに努力しても所詮物に出来るのは一握りの選手だけかも知れない…
ポジティブ思考な私は絶対口にこそ出さないがふとたまに考える事がある…
そんな時は度々よくない方向に運も向いてしまうものだ。
自分に厳しければ厳しいほど自分の良いところさえも認められなくなり
やがてそれは焦りに変わり時には自分以外の人間にも厳しく接してしまう事もあった。
「そんなんじゃ勝てないよ!」
「もっと海に入って練習しろよ!」
「言い訳して逃げんなよ!」
顔は強張り基本的な楽しむ事からだんだんと遠ざかり意地っぱりになっていく。
やがてお店の仲間に…
「大会は好きだけど、お前の考えにはついて行けない」
「僕は楽しくやりたいだけなんだ」
そう言い残し私の前から去って行ってしまった仲間もいた。
コンペティターとしても、ショップのオーナーとしてもあまりにも残酷な言葉だった。
ぐちゃぐちゃに絡まる糸をほどきながら信念が揺れ動く気持ちを抑えていた自分がいた。
そんな時、ただ1人私の事を認めてくれ
どんな時でも「大丈夫だよ!」といつでも私に元気をくれる選手がいて
何度も心を救われ、また本来の気ままな自分に戻してくれた。
千葉西支部シニアウィメンのトップランカー荻原浩子選手。
彼女もショップを切り盛りしコンペティターとしても数々の実績を築いてきた実力派選手の1人だ。
彼女はたわいもない会話の中でいつも私に励ましのエールを贈ってくれた。
コンテストで負け続けてくじけそうになった時も、お店の方向性に苦難する時も
豊田選手と荻原選手は私にとって強い心の支えになっていった。
きっと彼等と出会っていなければ、いくら強い信念があっても何処かでくじけていたかもしれない。
誰でも1人では生きていけないのだから。
さらにその時期に以前からサポートを受けていたサングラスメーカーから
新たに(株)カロッツェリアジャパン様(BLACK FLYS)からスポンサーして頂く事になったのだ。
このご時世サポートして頂く事は大変ありがたく思う。
BLACK FLYS担当の金子博幸氏はNSA主催、公認大会を始め数々のジャッジ(審判)をこなし、
実務経験も豊富でコンテスト後の報告を兼ねて連絡した時は
ジャッジ視点からしっかりアドバイスをしてくれて私にとっては心強い存在である。
なにより彼はただならぬ人生経験者で何事にも動じず、
男らしく肝の座った性格の彼が話す言葉は勝負においての理論や合理性に話力があり、
私は以前のメンタルよりはるかに強くなっていった。
今となっての金子氏は私の強力なメンタルの師匠である。
それからというもの徐々に成績も上向き
全くダメだった戦略的なものや勝負強さが改善されていった。
そんな中、日本全土を震撼させた東日本大震災が襲いかかる。
甚大な被害を被った北日本エリアはサーフィンが一時不能な状態に陥る事になる。
特に酷かった宮城、福島地域の選手は震災の被害と共に今後の生活まで安心出来るものではなかったはずだ。
私自身もお店はほぼ全壊でコンテストどころか地元でサーフィンも商売もしていける状態ではなかった。
救いだったのは全国の戦友からの励ましのメッセージや奈良県のプロショップ、ピースサーフクルーの山中代表(山中海輝プロの父親のお店)やタスク大磯本店の今須プロやチームの仲間から仙台の仲間への支援物資をたくさん送ってくれたり、山形支部の新館支部長や山本陽一プロなどの協力により宮城県サーファーが山形県の日本海へサーフィン練習に行く事もできた。
サーフィンやコンテストを通じて仲間が全国でつながっていた。
涙無しには語れないありがたい絆だった。
そして震災の影響も少し落ち着き
サーフィンエリアで被害の少なかった西日本地区で徐々にコンテストが開催される。
そんな時、福島支部の宍戸健太選手の闘争心に私は感心を惹かれた。
震災の年に宮崎県で開催された全日本サーフィン選手権大会。
予選で早々敗退した私は最終日までの観戦の中、彼はかなり目立ってみえた。
凄い気合いがはいっているな…
当時私はまだ面識が無くとも有名な選手で名前は聞いていたが、
その会場でまじかに見る彼はただならぬオーラをまとっていた。
後で本人から聞いた話しだが、
震災の被害にあって家族もサーフィン友達とも離れ離れの環境をしいられた彼は
これからも強く希望を持ち、肩を落としている仲間達に元気を出してもらいたい為に
福島支部を代表して戦ったと言っていた。
彼はその年、全日本サーフィン選手権大会は4位、
年間シニアランキング2位と言う素晴らしい成績を納めている。
その結果に対して彼はこう言った。
「みんなが僕に力をくれたんですよ!!」
そう話す彼の闘志と活躍にきっと離れ離れになった仲間や家族もきっと希望や目標をもっただろうと思う。
普段から優しく誰にでも気さくな性格の彼がその年に魅せたコンペティター魂に私は感銘を受けた。
コンテストにおいてのメンタルやモチベーションなど
普段からの気持ちが大切なものだと改めて痛感した年だった。
それからも私はいろいろな戦友と交流を深めていった。
ケンカじゃないが、いちどヒートクレジットでマッチアップをした選手とは
何かしら見えない絆と言うものが芽生えてくる。
まさに昨日の敵は今日の友である。
若かったサラリーマン時代にはお金で買えない物は無いと思っていたあの頃…
今となれば、お金では買えない素晴らしさや大切さがサーフィンにはあった。
多分私の知らない世界にもたくさんあるだろう。
私はサーフィンやコンテストを通じてお金じゃ買えない価値の素晴らしさを感じ手に入れた。
もちろんお金も無くては困るものだけど、お金よりも大切なものもたくさんある。
ありふれた台詞だけど、この世には大切なものがいっぱいあるんだ。
サーフィンを知らない人には何の価値かわからないかも知れない。
でも、私にとっては大事な宝物がそこにはあったのだ。
私の宝物は手のひらをいっぱい広げてみても何も見えない。
誰しも本物の宝物は心の中の宝箱の中にしか存在しないのかもしれない。
それからも私はよりいっそうコンテストに魅了されていった。
その後は以前より積極的にコンテストに参戦し、年間15試合以上の公認大会に参加した年もあった。
とにかく経験を積みいろいろな事をいっぱい学びたかった。
豊田師匠からコンテストの楽しさやテクニックを学び、
負けてしまった時や行き詰まった時は金子氏にメンタルを鍛えられ、
次第に残せる結果を得られるようになった。
とあるNSA公認大会で豊田師匠と一緒にファイナルに進んだ時の価値は
今まで手にしたどんな高価なものよりも大切な心の宝物である。
ファイナリストになったからでは無く、豊田氏と一緒にファイナルに行けたからである。
豊田氏は前日から作戦会議を開き、戦いに備えての戦略を私に伝授してくれた。
彼はマスタークラス優勝
私はシニアクラス4位
(シニアクラスファイナリストは伊豆の澤井選手、静岡の鈴木選手と青野選手)
(マスタークラスファイナリストは千葉の坂本選手、東京の小林選手、静岡の伊熊選手)
常に厳しい豊田師匠も、試合後の報告をかねて連絡した金子氏も、
いつも応援し励ましてくれていた荻原選手も、身近な仲間もこの時だけは自分の事のように喜んでくれた。
今まで努力して来た事がかすかに実った結果だったのだ。
「がんばったな」
今まで生きて来てかけてもらったどんな褒め言葉よりも嬉しかった。
この世に溢れるどんな褒め言葉よりその時のその言葉は価値があった。
きっとどの選手の中にも大切な人や家族があってみんなその人達の為に頑張っているのだと思う。
自分の為に頑張った事が周りのみんなに笑顔をもたし希望や勇気を持ってくれたならばこんな素晴らしい事は他に無い。
まだ何かを成し遂げたわけでは無い。
たかが公認大会の4位、
まだまだ目標の通過点にすぎない。
だが、私はこのコンテストを通して人は努力すれば何でも出来ると言う事を深く再認識した。
努力に勝る天才は無し。
私のクラスはシニアクラスで最初のシニア1年生の頃から先輩選手に揉まれてきた。
やがて私もシニアクラスで中堅的な年齢に差し掛かった頃、
新たなシニア1年生達がメンクラスから上がり挑戦してくる。
私達の間ではフレッシュシニアとかシニア1年生などと呼ばれている。
実力でも名高い静岡の鈴木選手や青野選手、茨城の寺門選手や五来選手、相模原の小崎選手、
湘南西の庄司選手や東峰選手なんかも若手シニアクラスで今後がさらに期待の実力派選手だ。
私よりはるかに若い彼らとヒートでマッチアップする事も多く、
その頃自分の体力の衰えも感じるようになった。
また体力トレーニングを本格的に再開しなければと思った矢先にマスタークラスの佐藤秀男選手と出会う。
彼とは2013年度のグランドチャンピオンゲームズでマッチアップした事がきっかけで話すようになった。
サーフィンの腕前も世界戦候補選手に選ばれるほどの実力者、
さらに日本でも指折りのサーフィントレーナーで
彼のコーチングを希望し門を叩くアスリートサーファーが後を絶たない。
私は佐藤秀男先生にトレーニングを希望し彼の住む湘南と私の住む仙台とで離れてはいるが、
彼に与えられたトレーニングメニューを毎日欠かさずやる事にした。
効果はすぐに現れた。
あれほど小さく厚い波やライティング中に力むセクションでも
体中にバネが付いたようになりスピードを落とさずワイプアウトの回数も極端に改善され
何より驚いたのは体重こそ変わらないが身体がものすごく軽く感じるようになった事だった。
相模原の小崎選手も彼の門下生と言う事もあり、私は佐藤秀男氏を身体の師匠と決めた。
私のアスリート生活を支えて頂いている強力なコーチが心・技・体ともにいて
たくさんの戦友が各支部にいて恵まれたアスリート人生を私は謳歌している。
スポーツを志す者として無くてはならないテーマでもある 心・技・体
個人でトレーニングされている方はいいのだが、
サーフィンとコンテストにブランクのあった私は
彼等やみんなのおかげで最高のコンペティション人生を歩んでいる。
この場をお借りして感謝の意を唱えたい。
今まで出会ってマッチアップした選手のみなさんへ
心からありがとうございます。
これからも出会う選手にも最初に言っておきます。
どうぞよろしくお願いします。
これからも果てしなく終わりのない挑戦は続く…
けどいつかきっと目標を成し遂げる日が来ると信じて。
第三章 完
いよいよ最終話の第四章!
2014年度NSAサーキットツアーでの苦難や苦戦、
最終戦グランドチャンピオンゲームズ出場権獲得までの模様をお伝えします。
お楽しみに!
|
| |
|
|
Copy right © INTERSTYLE Co.,Ltd All Rights Reserved. |
|