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『スケートボードがしたい』
火の国熊本の奥脇賢二氏よりバトンを受け取り、
今回より4回ほどコラムを書かせていただくこととなった横浜の小島です。
2005年に横浜にてFABRICというスケートショップをオープンし、
お客様やライダー達に支えられて今年の夏で9年目。
毎年開店記念にリリースしているDVD「KEEP it REALシリーズ」も次回で8作目をむかえます。
中学3年のころより本格的にスケートボードを始め、
それ以来24時間スケートボードしか頭にありません、
自己紹介の文章を書くより本当は一緒にスケートボードでセッションしたいです。
PHOTO:Nakamura Yukihisa(2001 SECRET CUT first isssue)
スケートしたくてたまらない私に、
スケートのことについて書いてくれと言う依頼以外は何もテーマもないので、
過去の著者を見てみると、友達の友達はみな友達スタイル。
とりあえずスケートを始めるにいたった経緯から始めます。
初めてはっきりとスケートボードに意識が向いたのは忘れもしない1976年、 私は幼稚園児。
その当時ローラースケートリンクというものが各地方に点在していまして、
同じアパートに住んでいた小学生に誘われてローラースケートをしに行ったときのこと。
流行の俗にいうナウいローラースケートをしに行ったのですが、
そこにはスケートボード用のボールがありカラフルなプロテクターを装着したスケーター達が、
まるでサーフィンのようにその大きなボールを乗りこなしているのを目の当たりにし、
子供ながらとてつもなく衝撃を受けました。
「あっちがやりたい」と言ったのですが、
「あれは大人になってから」と適当にかわされ
「大人ってずるいね」と世の中の矛盾をスケートボードを通じて教えてもらった瞬間です。
早く大人になってスケートしたいなぁと時折スケートボードを思い出しながら数年が経ち、
忘れもしない1979年か1980年、お茶の間でNHKの連続ドラマ「阿修羅のごとく」を見ていると、
スケートボードを街中で乗っているシーンが画面の中に!
しかも子供が!
初めてスケートボードに乗ることができたのは小学校に入った時でした。
「頭打つからダメ」といわれていましたが、
上級生から借りて初めて乗った感触は、
「余裕っしょ!」って感じで一回もこけませんでした。
そのことを親に伝え、
そういうわけだからスケートボードを買ってくれと真剣に頼み込んだのですが、
結局親の気持ちが動かなければ買ってもらえません。
もうさんざん泣いたりとかしてようやく買ってもらった物は、
「勉強しなさい」って理由でスケートボードの写真がプリントされているハイテクな筆箱。
それでも授業中に眺めているだけで幸せでした。
裏表に5個ぐらい蓋の付いた筆箱の表には、
青空をバックに外国人(多分)のスケーターが今まさにこっちにノーズを上げてロールインしてくる写真で、
裏面には金髪のチャンネーがデッキを持って立っているとてつもなくカルフォルニアな写真でした。
あそこまでねだったのだから誕生日にでも買ってくれるのかと思いきや、
その年の誕生プレゼントは「マジック(手品)セット」。
丸いスポンジがウサギになる手品とかいっぱい入っていて、
しばらくは手品のトリックにはまっていました。
そうしているうちに1981年になり、親の意識を変える出来事が!
なんと新聞に「今、横浜ではスケートボードがブーム」という記事が載り、
二人の子供がスケートボードに乗っている写真が掲載されていました。
子供の本気は全く聞き入れてもらえませんが、
メディアの情報はあっさりと受け入れるようで、
「じゃあお父さんに買ってきてもらいましょう。」とやっとスケートボードをGETすることになりました!
幼少より数年間、夢に見ていた瞬間です!
あのローラースケートをしに行った日から、
ハイテク筆箱でのイメトレの長かった日々を思い返し、
父親が帰ってくるのを一日千秋の思いで待ち望みとうとうその瞬間が!
父親が「ただいま」と言って玄関から入ってきて手にしているものを見ると、
イメージしていたものよりやや小さい、
そんなことはどうでも良く組み立てれば大きいのだろうと思い
「ありがとう」と満面の笑みで父親から受け取ると、思っていたよりも重い。
しっかりとその重みを噛み締め、
傷でも付けたらいけないと思い慎重にその包みを開封してみると
そこには新品ピカピカのローラースケートが!
これじゃない!
時代は怒涛の第2次スケートブーム、80年代へとつづきます
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