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『CREATING A SCENE -シーンの創造-』
昨年、オランダの田舎に在るスケートショップへ行ったら、
ローカルのキッズに最初に聞かれたのは、
「今朝のBerricsは見た?」という質問だった。
実際、僕はホテルを出発する直前に
クリス・コールvsデニス・ブゼニッツのS.K.A.T.E.ゲームをノートパソコンでチェックしたばかりだった。
今や世界の何処からでもスケート業界の最新ニュースを瞬時にチェックできる上、
YouTubeのお陰で過去20年に撮影されてきたビデオ・パートのほとんどを見る事だって可能だ。
とある街へスケボーをしに行ったとしよう。
すると大抵の場合、その街のスケーターはBerricsをチェックしてから滑りに来ているという具合だ。
最新のビデオもチェック済みの事だろう。
こんな風にして世界中にスケートボードが広められているのかと思うと、ただただスゴい。
そんな訳で、逆に、ある街へ行って、
そこのローカル達が
“今”のスケートシーンやメディアとは無縁なスタイルでスケートしていたとすれば?・・・
新鮮過ぎて困惑してしまうだろう。
しかし、そんなスケーター集団が現実に存在している。
それは、Osaka Daggersだ。
“Osaka Daggers”という言葉が使われる様になったのは未だここ数年、2004年くらいからの事だけど、
彼等はその遥か前から存在している。
僕が初めて日本を訪れた1999年には既に存在していたものの、彼等に名前が付けられていなかった。
Osaka
Daggersとは、一人のスケーターがシーンに与えた影響の証であり、
そのスケーターとは、チョッパーだ。
初めてチョッパーと会ったのは、大阪のローカルスケートショップ、スポタカでの事。
店内には彼のポスターが飾ってあり、それを見て大興奮したのを覚えている。
日本のスケート雑誌や森田の1996年のFESNのビデオでチョッパーの滑りを初めて見た瞬間、
僕は気に入ったのだった。
そのビデオでは全般を通してストリートでの最新トリックが収められていたが、
チョッパーだけは凸凹のレンガのバンクでレイバック・パワースライドなんかをキメていた。
彼のパートは短く、トリック数で言うと3つか4つしかないけど、
どのトリックもスピードとスタイルを併せ持っていた。
ベニス・ビーチ・ローカルのスケートを紹介する1990年のSanta
Cruzのビデオ以来、
目にする事の無かったスケートスタイルだった。
スポタカの森さんに僕がチョッパーのファンだと伝えたら、
森さんは「会ってみたい?すぐ近所に住んでるよ」と言ってくれて、
親切にもチョッパーに電話を架けてくれた。
間もなくすると、緑色の髪の毛に、つぎはぎだらけのズボンにペンキが塗られた靴を履き、
ボロボロのパンクバンドのTシャツを着たチョッパーが目の前に現れ、僕は面食らった。
チョッパーは英語がそんなに得意じゃなかったけど、
何とか会話は出来たし、気が付けば友達になっていた。
地理的には1万キロ以上離れている日本とイギリスだけど、
チョッパーと僕は、お互い同じスケートスタイルに影響を受けて育っていた
―エリック・ドレッセンやアーロン・マーレー、ティム・ジャクソン、
スコット・オスター、クリスチャン・ホソイ、ジェフ・ハートセルを
中心とする80年代のベニス・ビーチのスケートスタイルだ。
ストリート・スケートが誕生・進化していく過程を目の当たりにし、
当然ながらゴンズやナタスの滑りにも大きな影響を受けたけど、
何故かベニス・ビーチのスタイルに最も興味をそそられた。
僕の場合、1988年にイギリス北部バーレーのCastle
Leisureセンターという所で
デモを行なったエリック・ドレッセンの滑りを生体験してからは、
その滑りが脳裏に焼き付き、以後、離れないのだ。
チョッパーと近いセンスで、僕の一番のお気に入りのビデオは
Santa
Cruz のSpeed FreaksとRisk
Itだけど、
それ以上にチョッパーが口にするのが、1990年前後にホソイが日本をツアーした時のビデオだ
(恐らく「ラジカル・スケボーズ」のコト)。
一度見せてもらった事があるけど、決して造りが良いとは言えない
当時の日本に有ったバーチカルランプを全盛期のホソイが滑っている姿を
ビデオカメラで録っているという内容だ。
チョッパーの家には、未だ封が開けられていないままのGirlのビデオMouseが有る。
どういうワケか、観てみようと思う程そそられないのかもしれない。
でも、ここではっきりと言っておきたい事がある。
映画Dogtown and
Z-boysに感化され、
パークでやるトリックと言えば
“レイバック”というベタなスケーターとチョッパーを混同されては困るのだ。
伊達に20年間滑っていないだけに、
チョッパーのスタイルとは、
信じられないレベルのテクニックをベースに、スピードとスタイルとエネルギーがあるのだ。
ストリートを流しながらスイッチ・ダブルフリップに続いて540のパワースライド、
360ボンレスを一つのラインでやってのける様なスケーターなのだ。
この一例のラインからも想像できる様に、
正に“ノー・ルール”を体現しているスケートスタイルに最も興味を惹き付けられた。
クリエイティブなスケートスタイルを主張するスケーターは他でも居るものの、
Osaka
Daggersほど本当の意味でクリエイティブなシーンやスタイルを創造している集団を
これまでに見た事が無い。
今回、チョッパーについて書こうと思った理由は、
大阪を中心に彼が日本のスケートシーンに与えた影響が大き過ぎるからだ。
曜日に関係なく、夜の大阪アメリカ村の三角公園へ出向けば、
最低でも4~5人、多い時で30人くらいの風変わりなスケーターを目撃する事になる。
そのほとんどは革ジャンをまとい、独自のトリックを編み出そうとしている。
彼等こそがOsaka
Daggersだ。
スケーター集団によっては、敷居やエゴ、体育会系的なノリみたいなモノがあるけど、
Osaka
Daggersはそういった不要なvibesを一切排除している。
スケボーを手にして現れれば、
その場で仲間入り:明け方まで一緒にスケートして酒を飲めるという愉快な集団なのだ。
これは世界的に見ても稀で、例外的なシーンである事は間違いない。
僕は現在、海外のスケート雑誌2社向けにOsaka
Daggersを紹介する原稿を書いているけど、
その間にInfection(Osaka
Daggersをドキュメントしているビデオ作品)の第3弾がリリースを控えている。
Osaka Daggersが世界のスケーターに良い影響を与え、
その存在が知れ渡るかもしれないと思うと、ワクワクするし喜ばしい。
でも同時に、知名度が上がる事で彼等の純粋さ、マジックが失われては・・・という心配もある。
“良い人”で成るOsaka
Daggersなので心配はないけど、
この先もチョッパーが見守る中、
独自のトリックを編み出そうとする数人ばかりのエキセントリックな集団で有り続けて欲しいと願うのだ。
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